2012年8月2日木曜日

言語教師認知論2012を終えて

最終会は、特別講師を迎えて、内容的にちょっと濃かったのですが、個人的には勉強になりました。中国におけるglobal understandingに関する教師の認知は、現在の中国の発展を考えると重要なテーマで興味をそそります。

英語を教えるということは、国際理解や異文化理解(文化間理解)と深く関係します。小中高では英語を教えていますが、学習指導要領では「外国語」となっています。ことばは広い理解の始まりでもあるし、欠かせない道具ですが、内容でもあります。

コミュニケーションの重要性は多くの人が指摘するし、社会の中で生きる人間の生活の基盤です。それだけではなく、理解を図る上でコミュニケーション能力がなければうまくいかないでしょう。文化はその際に潤滑油にもなるし、障害にもなります。

「国際理解」ということば自体の理解のしかたも教師一人ひとり違うでしょう。英語では、global or international understandingと一般に言われますが、ヨーロッパなどではあまり聞かない気がします。個人的な思い込みなので事実ではないと思いますが、そんな気がします。どちらかというと、教師の人と話していると、intercultureということばをよく聞きます。

しかし、東アジアでは、「国際理解」は英語を学ぶ際には大きな目標となっているようです。実際は、「国際理解」と称して何をしているのでしょうか?私個人の経験では、「英語圏の文化を体験したり,歌や食べ物や行事を紹介し、平和に仲良くやりましょう」という内容が多かったように思います。それが悪いというわけではありませんが、実際は、もっと個人的なつながりをすることのほうがいつも重要なのではないかと思います。その意味で、英語や互いの言語を利用できることはとても大切です。

Kさんは、日本の大学院で英語教育を研究し、日本語も英語も堪能です。これからますます活躍していただきたいと思います。

さて、さいごの授業で、発表した内容についてレポートをいただきました。ありがとうございます。あらためて興味深く読ませていただきました。それぞれのテーマはどれも、言語教師認知的に見れば、たいへん重要です。ぜひ追求していただきたいと思います。

教師は、教える人であり、研究する人です。英語教師であれば、英語を教えることがまず第1の仕事です。そのための知識、技能、経験はつねにブラッシュアップする必要があります。多くの外国語の教師は、自分の知識や技能に自信を持っていません。もし自信があるとしたら、それはおそらく間違いです(と思います)。

言語教師認知論自体は、何もないかもしれませんが、教師である自分を考える、自分を探求する、それも生徒や同僚を通して自分を見つめる、生徒や同僚も教師を通して自分を考える、というような「学び」を教師という観点から考え、発展させることと深く関係しています。教師自体を研究の対象とするわけではないと考えています。特に言語教師はその点について考える必要があります。文法や単語を教えたり、受験指導をしたり、英語でコミュニケーションすることを教えているだけでは壁に突き当たります。その先があると思います。その先とは、私にもわかりませんが、実際、それぞれのことを探求してすばらしい成果を上げている人がたくさんいます。それをただ見倣うのではなく、「自分を見つける」ことが大切でしょう。そのヒントが、言語教師認知の研究にはあると思うわけです。

英語の知識や技能の向上には何も役立たなかったかもしれませんが、数ヶ月ありがとうございました。また引き続きよろしく。

このブログは,メモです。乱筆乱文ご容赦ください。

2012年7月14日土曜日

発表を聞いて4(大手予備校講師インタビュー)

予備校や塾と言われる教育機関あるいはその他の教育産業は、日本の教育には欠かせない存在となっているにもかかわらず、あまり表立って取り上げられることはないようです。その意味で、K2さんの話は興味深く聞きました。大手予備校講師のK先生に焦点をしぼって、その教師のライフヒストリーを、自分とのかかわりを交えて話してくれました。言語教師認知の研究は、教師のビリーフ、教師の知識、教師の意思決定、教師の学習などが、教師の教え方や行動とどうかかわるかを探求する研究で、さらに、その研究を通じて、教師個人の成長を図ることを目的としています。そのことが、生徒の学習に大きく影響を与えるという観点から、とても重要な研究だと思っています。

その意味で、予備校や塾での英語指導は、私にはよく分からない対象で、もっと探求する必要があるといつも思っています。

ウェブで調べてみると、様々な調査報告がありますが、ベネッセに次のように補助教育として説明があります。


JAPAN’S SuPPlEMENTARY EDuCATiON MARKET


また、次のような記事もありました。

Supplementary education in Japan

いずれにしても、予備校や塾は教育の重要な一部となっていることがよく分かります。その中でも「英語」は実に重要な科目となっています。

K先生は、K2さんに大きな影響を与えた先生です。さらに、K2さんだけではなく多くの教え子に影響を与えたようです。静岡から東京に出てきて、人気講師の一人として活躍しています。しかし、生徒の大学合格という目標を実現するプロフェッショナルとして日々の努力は並大抵ではありません。おそらくどのような教育現場でもそれなりに活躍する人だと思います。

K先生が授業で心がけていることは次の3つだそうです。

分かりやすい  おもしろい(fun)      外見/雑談

なるほどと思います。中学校や高校の英語授業でも多くの先生は腑に落ちることだし、そう努力していると考えられます。

私は、大学で教えていて学生に思うことは、「何のために英語を学ぶのか?」ということです。予備校ではこれが明確で「目標の大学に合格するため」です。しかし、これは誤解だと考えています。予備校や塾の先生は、それだけでは生徒は満足しないだろうと直感しているはずです。だから、何か工夫をしなければ生徒の関心を引きつけることはできないと考えます。その工夫は、教師によって違います。違っていいだろうと思います。生徒は違うからです。

その中でも最も重要なことは、生徒の人生や学習などの不安に対する漠然とした配慮ではないかと、個人的には考えます。これは、英語を教えることと直接関係ないかもしれませんが、間接的には大きく関係しています。K先生の心がけていることに関連させると、

分かりやすい → 分かったことによる不安の排除

おもしろい(fun)   → 心を開放することによる不安の排除

外見/雑談 → 「つかみ」による一体感

などと考えることもできます。あまりいい説明ではないかもしれませんが、生徒の安心感や信頼感をつかみ取ることは、教育の基本です。

私は、基本的に受験指導を肯定するわけではありません。文法理解も読解もある意味で必要ですが、最終的には、その言語が「使える」かどうかです。受験という短絡的な学習目標設定はすべきではないと思います。その意味で、予備校や塾のパワーを学習者個人の言語教育ともっと密接に関連させたほうがよいと考えています。

CEFRやCLILやELPなどのヨーロッパを中心とした言語教育の流れは、日本でも生かせる可能性があります。受験というビジネスは相当の力があります。若い人がその表面的な部分にのみエネルギーを注ぐのではなく、言語学習が将来につながる基礎的な能力として生かされることを望みます。その意味で、言語教師は、どのような教育機関でも、言語教師として活躍できるように、次のようなスタンダードを考えみました。

実践的外国語(英語)に携わる言語教師研修カリキュラムより



スタンダード1:外国語の知識と技能
スタンダード2:外国語授業運営の知識と技能
スタンダード3:学習者の外国語学習目標の明確化
スタンダード4:学習者の外国語学習ニーズに沿ったカリキュラム設計と評価
スタンダード5:学習者の学習履歴の把握と学習方法の支援
スタンダード6:学習段階、科目内容、分野、仕事などのディスコースコミュニティの理解
スタンダード7:教育目標、学校文化の理解と外国語教育の専門性
スタンダード8:外国語使用のジャンル(場面や社会文化など)に対する理解
スタンダード9:初等教育から高等教育まで系統的外国語教育理解
スタンダード10:評価測定方法に関する知識と技能


K2さんは、予備校の教師になりたいそうです。きっと「教える」「学ぶ」ことに対する自身の体験がそうさせるのでしょう。それは意味のあることです。私は、塾や予備校はやりがいのある仕事だと思っています。多くの人がその価値を評価しています。世界的にも認められるべき教育文化だと思っています。

しかし、不幸なことに、全体の教育システムとしてもっと効率化される必要があると思っています。結局、お金がない人は、教育を受けられる機会を失っていることをもっと考えたほうがよいでしょう。そして、それに携わる(言語)教師も「教える」ことに集中できることが大切だと考えています。

まとまりがありませんが、刺激的な話でいろいろと考えさせられました。

ありがとう。乱筆乱文ご容赦。

発表を聞いて3(言語教師としてのパーソナリティについて)

Tさんはやはり自分が好きなんだろうと思う。それとともに、他人も好きで、人とかかわり合うのが好きだ。発表にもそれが表れていました。これは、言語教師というよりも教師にはとても必要な要素であり、かつ、けっこうしんどいかもしれません。


パーソナリティがテーマでした。金子みすゞの詩を思い出しました。

私と小鳥と鈴と

私が両手をひろげても、/お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のように、/地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、/きれいな音は出ないけど、/あの鳴る鈴は私のように/たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私/みんなちがってみんないい。

Tさんの話は、まず自分の生い立ちが自分のパーソナリティにどうかかわるかを説明することから始まりました。特に祖母の話はとてもいい話でした。Tさんの人とのつながり方の基本がどこにあるのかがよく分かりました。

話の大筋は、恩師の先生とアルバイト先の大手コーヒーチェーン店での自身の経験でした。二つの話は、人との接し方で共通してました。恩師の先生が生徒とどう向き合っているのかをインタビューで聞き取り調査をしました。経験豊かな先生で、話の様子からするととてもいい先生のようです。自分のパーソナリティを生かした実践が授業に反映されているようです。TさんのロールモデルとしていまもTさんに影響を与え続けているのでしょう。

大手コーヒーチェーン店での経験は、やはりTさんの今日に大きく影響を与えているようです。接客という観点から見れば、教育にも共通する考え方があります。言語教育は、言語の構造や機能をただ教えればよいという訳にはいきません。コミュニケーションという要素と文化という要素を同時に考える必要があります。大手コーヒーチェーン店の理念が、働く人や顧客のことをまず考えることにあるということは、なるほどと思いました。

「分かった!」「できた!」という成功体験は、学習者にとっても、教師にとっても大切です。恩師の先生も大手コーヒーチェーン店の理念も、それを大切にしているということが基本にあるようです。それとともに、Tさんも強くその考えに支えられていると感じました。

人と接するのは楽しいこともありますが、嫌なこともたくさんあります。恩師の先生が感情をある程度抑えて生徒と接するというのは、自分に対する戒めかもしれません。「みんなちがって、みんないい」は、そのとおりだと思うのですが、実はむずかしい。言語教師としては、ことばの学習を通した文化理解能力(intercultural communicative competence)の育成につながります。

Tさんの考えは、まだうまくまとまっていないかもしれませんが、ほぼよい方向に向かっていると思います。全体をよく見ていると感じました。

ありがとう。乱筆乱文ご容赦。

2012年7月9日月曜日

発表を聞いて2(フィンランドの英語教育と教員養成)



Sさんは、特別発表です。昨年から1年間フィンランドに留学していた際のことを話してもらいました。フィンランドの英語教育やその教員養成(特に教育実習)について特に調査してきました。発表はその一部です。Sさんとはこの4月にフィンランドで会って話をしました。その際に、とてもおもしろい体験をしていることを知り、この授業にも特別参加してもらいました。

フィンランドの教育は日本でも注目されています。確かに成果をあげていて、日本の教師からするとかなり異なる環境の中で教えています。Sさんは、その教員養成課程の中でエスノグラフィーをしました。集めた資料はおそらく膨大でこれから整理してまとめるのでしょう。特に教育実習の観察調査は貴重だと思いました。すべて見た記述をしっかりとまとめておくとよいと思います。これから行なう日本での教育実習と較べると何か分かるような気がします。

Sさんの発表の中で、教員にとって大切な点に、distinctiveness(独自性)ということをあげていました。フィンランドの教師教育の特性を表していると思います。もちろん、これは教師に限ったことではありません。当たり前ですが、人と違うこと、個性は、とても大切です。しかし、日本の教育環境ではどうでしょうか?学校や学級などでは、協調性の重要性や他の人と同じ行動や意見を要求されることが多いかもしれません。個性を重視するあまりコミュニケーションが軽視されたりする場面もあります。そのあたりの社会と学校と個人の関係性が、日本ではまだ「閉じられている」という気がします。教師の「教え方」を考えてもそうです。人と同じように教える、だれかのまねをする、自分が教えられたように教える、という状況が多々あると思います。その点、distinctiveness(独自性)は大切です。しかし、その背景には、当然、ある前提条件(学習指導要領)があります。日本の大きな問題は、学習指導要領と現実の要求が、「あいまい」であることにあると、個人的には考えています。

もう一つ、Sさんの発表で、印象に残ったことがあります。「英語を通して教える」ということです。これはさりげなく言われるので、「それで?」となるかもしれませんが、私自身がフィンランドの英語授業を見ていて、いつも感じることです。もちろん、フィンランドでも英語の授業では英語を教えているわけですが、背後には「英語を通して教える」という意識があります。日本の場合、それよりも「英語を教える」という感覚が強いように思います。英語教師は、英語の語彙、文法、統語、文化、コミュニケーションなどなどを教えるということです。「英語を通して教える」を別の言い方をすると、「英語はツール」であるということです。英語自体に何か目標があるわけではありません。もちろん英語という言語を研究の対象とする人には別ですが、多くの生徒は違います。英語は彼らが社会に出たときに必要なツールなのです。

Sさんはどう思ったか分かりませんが、私はフィンランドの外国語教師の授業をすごいとは思いません。日本の教師の方が教え方が上手な人はたくさんいるのではないかと思います。しかし、フィンランドの教師のよいところは、教えることに自信を持って教えているということです。人と違って当然。授業はテクニックではなく、その教師の姿勢と哲学で、まさにその人自身の生き方の問題です。教師は忙しい仕事ですが、まず楽しまなくてはいけないと、フィンランドの教師を見ていると思います。先生が楽しんでいなければ、生徒は楽しくないでしょう。先生がいい加減にやっていれば、生徒もいい加減になります。

フィンランドは、日本よりは教育にお金をかけて、力を入れています。日本はお金をかけずに、効率よく行ない、成果をあげてきました。少しフィンランドを見倣うほうがよいと思っています。Sさんの発表は、フィンランドの教育全体の説明で、話足りない点もあったようです。1年間の知識と経験は貴重ですから整理しておくとよいでしょう。また、これをきっかけにフィンランドを徹底的に研究していくとよいでしょうね。期待したいです。

私もフィンランドの外国語教師認知には興味を持って研究しています。何故かというと、フィランドの外国語教師の考え方や実践を見ていると、日本の英語教師の考え方や実践に「特異な」思い込みがあるということが見えてくるからです。人は違うのは当たり前ですが、その違いを違いのまま受け入れることが、distinctiveness(独自性)なのですが、日本ではどうもそのことが機能していないように思います。distinctiveness(独自性)を強調し過ぎて「独りよがり(ego)」になったり、distinctiveness(独自性)を消すことで、同僚と同じように同じことを大過なくこなすというようになったり、バランスがうまくいっていないように感じます。このバランスを教師が持つことで、生徒もバランスを保てるのではないか。

教師は忙しいと言われます。ちょっと考えてみて、仕事を整理したらどうでしょうか?フィンランドを見ているとそう思います。Sさんありがとう。

乱筆乱文です。間違いや勘違いやご容赦ください。






発表を聞いて1(教職員の国際交流プログラム)


K1さんの発表は、教職員の国際交流プログラムについてでした。自身でも高校生の頃から国際交流活動に参加してきて、実践に根ざした発表でした。調査方法は、ある国際交流団体の職員の方へのインタビューとその現場でのエスノグラフィー的な介入調査です。私はこのような調査はとてもおもしろいと思っています。特に教師には必要な調査方法だとずっと思っていますが、調査方法としては、客観性に欠けるので問題も多々含んでいます。集めるデータの記録とその分析方法に注意を払い、「調査者である私」を意識して、問題を考える訳です。「調査者である私」は、この場合とても重要で、それを排除すると調査の意味もなくなってしまうかもしれません。「調査者である私」の変化も重要で、調査対象の変化も重要です。K1さんは、今回の調査にそのような視点から取り組んだと考えられます。

前置きはそのくらいにして、発表内容の国際交流についてです。国際交流は教育活動では柱の一つです。文部科学省でもそれを推進しています。次のウェブを見てください。


文部科学省の国際交流の推進

それによれば、教職員・学者・専門家の派遣・受入れの実施率は100%超の成果をあげているそうです。しかし、K1さんの調査によれば、中国での教員による交流活動が持続的であるにもかかわらず、かなり制限された表面的な交流に終始している可能性が示唆されています。この指摘はとても重要な指摘です。この分析の背景には、K1さん自身の実践が土台にあります。K1さんは、結論として、交流に重要なのは、「人間理解」「人と人とのつながり」と言いました。単に伝統文化の紹介や語学学習やイベントとしての交流だけではなく、個人と個人がどうつながるか、そのつながりをどう意識するかということだと思います。これは、まったくその通りだと思いました。

文科省の国際交流の推進における調査では、おそらくそういうことはまったく数値としては考慮されていないようです。もちろん、参加している人は「つながり」を意識して、貴重な体験をしているでしょう。しかし、プログラム自体が硬直化した内容になっている可能性も否定できません。その点からK1さんの指摘は重要だと思います。

それとともに、K1さんの発表でとても興味深かったのは、K1さん自身が「人とのつながり」をいつも大切にしている姿勢です。言語教師認知の研究は、ただ教師を調査研究することではなく、調査研究する人自身の「自己の探求」にあります。K1さんはそれを実践していることが、まさに言語教師認知の研究だと思いました。英語では「国際交流」という意味を表現しにくいです。英語による近い概念は、intercultural communication(文化間コミュニケーション)になると思います。international exchangeと訳しても意図は伝わりににくいでしょう。

K1さんが教師になるかどうかは分かりませんが、おそらく国際交流の活動をずっと何らかの形で続けると思います。言語教師認知の観点から言うと、やはりその際の「ことば」の問題、「ことば」の教育の問題を考えていただきたいと思います。その際には、英語はかなり重要なツールとなります。「交流のための英語」「英語からさらに互いのことばへ」という言語教育が必要なのではないかと思います。この役を担うのは、やはり現在の英語教師ではないでしょうか。

そんなことを考えました。発表ありがとう。
乱筆乱文です。間違いや勘違いやご容赦ください。

2012年7月6日金曜日

さて

いよいよ発表です。と言っても軽い気持ちで話すのがよいですね。いつものように。

関連で思ったことをつらつらと書いておきます。

言語の授業では、ことばを扱うにもかかわらず、ことばによって意味のある活動ができにくいというパラドックスがあります。そのために、基礎基本、つまり、ことばの構造や機能ということばのしくみを教えるか、それを意識するように促す、あるいは、擬似的なコミュニケーション体験を工夫することで、ことばによるコミュニケーションを理解する機会を図るという、他の授業とは違う工夫が必要になります。つまり、ことばと学習者が興味を持つ内容に配慮する必要があります。

言語学習ということだけを考えれば、言語という内容をことば(母語であったり、学習目標言語であったりします)を介して教える(学ぶ)ということですが、言語教師の意識には、そのことが明確に整理できていない場合が多いのではないかと考えています。分かりにくいかもしれませんが、たとえば、文化を教えるという場合を考えてみましょう。

英語の授業では、文化を教えることは目標の一つです。文化という概念から、国際理解教育、異文化理解などがイメージされるでしょう。しかし、それは英語の授業とは必ずしもつながらないかもしれません。外国語を学ぶ、交流する、文化を知る、文化を紹介する、などなど、学校ではそれぞれの教師の観点からそれぞれの内容と目標をもって指導されます。

そのベースにあるのは、やはり担当する教師の知識や経験にもとづくものであり、考え方が基盤にあることは言うまでもありません。そのような個人的な考えを排除することは、逆に、問題かもしれません。

通訳を介することで理解するということが主になりますが、そこでは何かいつも問題が起こっているように考えています。しかたがないと言えばしかたがないのですが、何か共通に使える言語(英語)があれば異なる理解が可能です。もちろんそこにも問題はあるでしょう。

その意味から、文化についてそれぞれの言語教師がどのような認知のしかたをしているかを知ることは意味あることです。

フィンランドの外国語授業でも、文化の扱いはとても重要です。その際に媒介となる言語は英語が重要です。その意味から英語授業では、英語圏の文化を知ることやその文化と自国の文化を比較してみることをやっているようです。教師と生徒の視点が、日本と較べると、ある意味で実践的であるし、具体的です。どの英語の授業でも、ただ言語のしくみのことだけを取り上げていないように感じます。

「言語はツールである」という意識が強いのではないかと思います。日本ではどうでしょうか?

発表を聞きましょう。







2012年6月25日月曜日

言語教師認知の研究の意義

言語教師認知をもう一度考えておきましょう。
本研究は確実に進んでいます。日本の教師認知全般にわたる研究の動向は、秋田喜代美(1992)の論文が概要を捉える意味で参考になります。

教師の知識と思考に関する研究動向

授業の中で教師は何をどう考えて教えているのかを捉える必要がありますが、これには多くの要素があり、そう簡単に整理できるものではありません。ある授業で教師がどのように授業をしたかを分析して、ある程度理解できたとしても、それが別の授業で生きるかどうかは分かりません。

英語の授業で、発音で、/r/と/l/の指導をするとしましょう。効果的にその違いを教える方法は様々です。小学生と中学生では違う方法を取ることが必要かもしれません。こどもとおとなでは違うでしょう。母語を日本語とする人とそうではない人でも違います。

さらに、授業のポイントをどこに置くかでも内容は変わります。

・音を認識する → 聞く
・音を発話する → 話す
・意味を理解する → コミュニケーションする

その他に、場面や状況、学習者のニーズや動機なども考慮する必要があります。

これらを総合して、教師は判断して授業を行なっています。その知識や技能を教師が身につける必要があると考えるのが、「教師の成長」ということにつながります。

秋田氏の論文のさいごに、本研究の3つの課題が書かれています。

1 研究方法
2 教師と生徒の認知
3 日本での研究の必要性

この3つの課題は、20年以上を経たいまでも解決されていませんが、徐々に注目を集めてきていることは間違いありません。多くの研究がなされるようになってきました。

しかし、「教える」あるいは「学ぶ」現場ではどうでしょうか?

言語教師認知の研究は、おそらく主流となる研究ではないでしょうが、多くの教育研究、教科指導、言語教育、言語学などに必要な視点です。

国際理解教育という領域では、まず教師が国際理解ということをどう考えているのかが問われるでしょう。

ドイツ語を教えることと英語を教えることなどについても何か違いがあるのか?もしあるとすると、それは何か?言語を教える教師に共通する知識や技能はあるのか?などを考えることも大切です。

予備校というのは特に興味深い教育現場です。日本では欠かせない教育現場であるにもかかわらず研究分野ではまったく無視されていると言ってもよいでしょう。なぜそうなのでしょうか?あるいは、実際にどのような役割をしているのでしょうか?

フィンランドの教育は多くの人が注目していますが、一部が紹介されている程度です。人によっては、「小さな国の教育で、日本には当てはまらない」などと考えています。しかし、多くの地域で教師が何をしているかを知ることはとても重要でしょう。

言語教師認知の研究の意義は、簡単に言うと、言語教師に注目することで、「教える」ことを考えてみることにあると思います。

そのためには、研究方法、授業での生徒との関係、日本というコンテクストの研究は、いまでも求められる研究の方向性を示すものと言えます。



2012年6月14日木曜日

言語教師の認知(cognition)のとらえ方 3

フィンランドの言語教育と言語教師認知

前回は、Sさんに来てもらい、フィンランドの教員養成などについて話をしてもらいました。

フィンランドの言語教師教育には、私も関心があって、以前から調査しています。フィンランドは日本から較べれば小さな国ですが、小さな国だからできて、大きな国だからできないはまちがいだと思います。

フィンランドでもすべてのこどもが勉強しているのかと言えば、そんなことはありません。勉強しない子は勉強しないし、悪い人は悪いです。

Sさんは、タンペレ大学で1年間英語教育と英語教員養成について学びました。とてもよい経験をしたようです。私も、フィンランドの英語教育に注目したことは正解だと思います。特に、Sさんが、教育実習などの授業を多く見てきたことはとてもよいことだったと思います。

フィンランドの教員養成の基本は、リフレクション(ふりかえり)です。自分自身の力量を高めるために、自分で工夫して、自分で成長する。その際に、仲間といっしょに考えることがとても大切で、人のまねをすることを良しとしないようです。これは、生徒にも大きく影響することで、先生が自分で考えて授業をすれば、生徒も自分で考えて学ぶのだと思います。「学習者の自律」が教育にしっかりと取り込まれているのです。

「教え方」に正解はありませんが、独りよがりは困ります。きちんと理論に則ったプロとして「教え方」を科学的に考える期間が、教員養成です。特に、フィンランドの言語学習の特徴として、

Teaching      Studying     Learning

という三つの要素があります。言語学習は、「教えて、習う」ではなく、「学習する、研究する」が大切だということです。私にも具体的にどのような理念かはっきりとは分かりませんが、よく特徴を表していると思っています。

言語教師認知の研究では、このようなフィンランドの教師と日本の教師の考え方の比較をすることも重要だと思って実施しています。その際の調査の基本は、アンケートです。アンケートだけでも多くのことが分かります。たとえば、Communicative Language Teachingに関するアンケートを実施しました。結果はまだ公表していませんが、とてもおもしろい結果が出ています。

調査は、ある目的を持って行なえば、アンケート調査だけでもかなりのことが分かります。そこから、ある課題を抽出して質的調査を実施するとさらに多くのことが分かります.

Sさんのようなエスノグラフィーの調査は時間がかかりますが、言語教師認知の研究では重要な調査です。

いつもながら乱筆乱文で失礼。これは私のメモのようなブログです。間違いや誤解は許してください。

2012年6月8日金曜日

言語教師の認知(cognition)のとらえ方 2

オーストリアのグラーツ大学で、EPOSLT (European Portfolio for Student Teachers of Languages)を実践しているDavid Newby先生の言語指導法の授業を参観しました。

EPOSTLは、教師になる人が自分の教師としての成長をふりかえるCAN DO リストです。たとえば、


I can create a supportive atmosphere that invites learners to take part in speaking
activities.

というCAN DOの記述に対して、自分がどの程度それができるのかどうかを考える一つの指標とします。

授業では、リーディング指導に関して、このCAN DOを行なっていました。たとえば、

  1. I can select texts appropriate to the needs, interests and language level of the learners.
  2. I can provide a range of pre-reading activities to help learners to orientate themselves to a text.
  3. I can encourage learners to use their knowledge of a topic and their expectations about a text when reading.
  4. I can apply appropriate ways of reading a text in class (e.g. aloud, silently, in groups etc.).
  5. I can set different activities in order to practise and develop different reading strategies according to the purpose of reading (skimming, scanning etc.).
  6. I can help learners to develop different strategies to cope with difficult or unknown vocabulary in a text.
というCAN DOをもとに、リーディングの指導を考えるという内容でした。

EPOSTLは、教師が成長することを考えて作成された教師のポートフォリオです。ヨーロッパ全体の言語教育の枠組みを示しているCEFRと密接に関連した言語教師教育を推進する一つの道具と言えるでしょう。

私は、この授業を観察しました。観察の際には、フィールドノートを取っておきますが、取り方についてこれと言った決まりがあるわけではありません。

観察の際には視点が大切です。つまり、「何を見るか?」です。

教師の発話を見るのか?
教師の行動を見るのか?
教師の指導手順を見るのか?
教師と生徒の関係性を見るのか?
生徒の活動を見るのか?
など。

このような授業観察には、二つの大きな視点があります。

  1. 授業研究 ー 授業改善や向上のための観察
  2. 実態の理解 ー 説明されていることが実際にどのようになっているかの観察
  3. 教師や授業の認知の質 ー 教師のビリーフや意思決定と行動の観察


今回の場合は、2にあたりますが、研究のための観察というよりは、EPOSTLがどう使われているのかという調査です。

いずれにしても、観察の基本は、調査者の目を通して事実を見て、それを事実にそって報告することです。その際は、目的をある程度明確にしておきましょう。

EPOSTLの授業での利用は、私が思っていたよりも、さっぱりとした利用でした。いわば、シラバスのような印象を持ちました。逆に言うと、学生は、EPOSTLにそって学習すればよい教師になれると思いました。

この続きは、授業で。







2012年5月27日日曜日

言語教師の認知(cognition)のとらえ方 1

「言語教師」という言い方には馴染みがありません。英語でlanguage teacherと言えばよく使われる表現です。ドイツ語では、Sprachlehrer。日本は、教師はまず教師です。その他に、講師という言い方があります。教師と講師はどう違うでしょうか?また、教師と教員はどうちがうでしょうか?明確に回答できませんが、「言語教師」という言い方は結局馴染みがありません。

「認知」という言い方も微妙です。一般には、認知症がよく使われますから、「〜を認知する、できない」などと使われます。私自身で使い始めた「言語教師認知」という六字熟語は、ひょっとするともっと分かりやすくすべきかもしれません。

そのポイントは、

・言語教師の意味を考えることが、言語学習意識を変える
・言語教師の認知過程を研究することが、教師の成長につながる
・言語教師の認知過程を研究することから、学習者の学習を考える

というようなことだと考えます。言い換えると、

教師の認知を研究することで、言語学習ということを再考し、言語教師は何をする人かを考え、その対象となる学習者と学習を探求する

ということになります。

具体的には、

言語指導に携わる人を、特定の観点から調査することで、そこに何らかの発見や特徴が見えてくる。

たとえば、Grounded Theory (GT)という調査方法があります。その基本は次のようにまとめられます。


1 分析する対象を認め、十分に理解する
2 観察やインタビュー結果などを文字にして文章化する
3 データをできるだけ客観的に分類する
4 分類されたデータを読み、ラベルをつける
5 ラベル同士をまとめ、カテゴリー化する(オープンコーディング)
6 カテゴリーを関連づけ、説明を加える(アクチュアル・コーディング)
7 さらに説明を比較し、理論的にカテゴリーを関係づける
8 カテゴリーの関連の中で、対象を理論的にまとめる
8 理論化する

この手法は、具体的には様々ですが、ある現象を調査しながら理論化するプロセスという点は変わらないでしょう。そこで、言語教師認知という理論的枠組みを当てはめることで、調査に柱ができます。

これはあくまで一例に過ぎません。言語教師認知という研究の枠組みから、個人的に関心のあるテーマに取り組んでみましょう。







2012年5月19日土曜日

とりあえずリサーチ

言語教師認知の研究の基本は、「教師が何を考え、知り、信じ、どう教えているか」を理解することです。では、具体的に、「何を、どのようなことについて」を明確にする必要があります。

何かをする際には、人は意思決定をします。
授業をする際にもつねに意思決定をします。
「言語教師とは何か?」「よい教師とは?」「よい教え方とは?」「教師は何を教えるのか?」「教師のただ言語(英語)を教えればよいのか?」「外国の文化、国際理解、コミュニケーションなどなどは、どのように考えたらよいのか?」「英語やドイツ語を話せて、その文化を知っていれば、うまく教えられるのか?」「テストができればよい教え方なのか?」
などの疑問に正しい答えはありませんが、授業をするときにはある程度決めてから行動します。
その意思決定は、技能訓練だけでは対処できないのがふつうです。では、どうやって意思決定しているのでしょうか?

おそらく、それほど単純なことではないということは予想できますが、人によって相当に違いがあることも予想できます。つまり、「教える」ということは、複雑な教師と生徒の認知の関係性の中で成り立っている複雑な状況と考えられます。表面的な指導の流れや、教師と生徒の発話や、授業の目的が達成されたかどうかの成果を見ることだけでは、「学ぶ」ということの意味は適切に理解できないでしょう。

そこで、言語教師認知の研究は、いままでとは違うアプローチを取ります(アーカイブ2011年5月17日参照)。


言語教師認知は、社会的認知(social cognition)の考えと関係します。
 
  人は意図的に環境に影響を与える
  人は認識を返す
  社会的認知は自己とかかわる
  社会的刺激は認知の対象となることで変化する
  人の特性はそれ自体を考えるのになくてはならない観察不可能な属性である
  人は、モノが通常変化するよりも時間や環境とともに変わりやすい
  人についての認知の正確さはモノについての正確さよりも確認するのがむずかしい
  人は不可避的に複雑である
  社会的認知は自律的に社会的説明とかかわる

上記のことを考えて、まず、自分の興味と関心で、リサーチする対象を「調べ」てみましょう。

K1さんは、予備校、カタカナ、よい英語指導、の3つを考えてくれました。どれも面白いですが、範囲が広すぎます。そこで、予備校に焦点をしぼることにしたようです。

個人的には、私は実態をあまり知らないのでとても興味があります。最近では、現職の公立学校の教師が、予備校に研修に行ったりしています。予備校の教師は、ある意味でプロフェッショナル意識が強いかもしれません。期待したいですね。

方法としては次のような筋道を立てて考えてみるとよいでしょう。

1 予備校や塾指導の現状の把握、予備校講師の定義、予備校と中高教師の違いなどなどの背景的な知識のまとめ

2 調査の目的や仮説などの設定

3 調査方法(アンケート、インタビュー、観察など)の明確化

4 調査結果の分析とまとめ方

5 考察

K2さんは、国際理解にかかわる英語教師の考えに焦点をしぼるということでした。明確でよいと思います。また、このテーマも個人的にはとても関心があります。というのは、日本の英語教師の国際理解や交流や文化理解に関する考えは、微妙にずれているのかなという気がしています。


ACCU (ACCUAsia-Pacific Cultural Centre for UNESCO)の活動に興味を持つ教師にはどういう人がいるのか?どうして興味を持つのか?それが授業でどう反映されているのか?などなど、一つの活動にしぼって調査することで、何か分かりそうな気がします。

また、授業で話したICC (intercultural communicative competence)は、日本では、「異文化(間)コミュニケーション能力」と訳されます。この類いの本はたくさん出版されています。これは、言語教育でも、とても重要な概念です。しかし、これをどのように育成するかについての教師の意識はあまりよく分かっていないのではないかと思います。

K2さんは、実際に活動して実践しているので、その経験をベースにすることが大切だと思います。自分自身の考え、経験を、この調査を通じて,再度問い直して考えて、ことばとしてまとめてみると、今後の方向性が明確になると考えます。

方法としてはK1さんとほぼ同じですが、次のように筋道を立てて考えてみるとよいでしょう。

1 国際理解、文化理解、ICCなどなどの背景的な知識のまとめ
      それと自身の経験や知識にもとづく交流に対する考え方

2 調査の目的や仮説などの設定

3 調査方法(アンケート、インタビュー、観察など)の明確化

4 調査結果の分析とまとめ方

5 考察

体調を崩して休んでいたTさんも、上記のことを参考に、自分の調査を進めてください。

では。




2012年5月13日日曜日

言語教師認知の研究

今回は、私がほとんど話してばかりですみません。次回はそのようなことがないようにしたいと思います。

さて、

言語教師認知の調査研究は、素朴な発想から生まれます。しかし、単に教師の考えを調べて分析することにとどまらないことが大切です。教師は、様々な意味で査察(inspection)や評価(appraisal)の対象とされる傾向があるからです。実際、ここ数年の間に、教師は校長に評価されたり、自己評価することを求められています。説明責任(accountability)の観点から、多くの報告文書の作成、社会や保護者からの要望に応える必要性、学校内の情報の管理など、授業指導にかかわる以外の多くの仕事が課せられ、なおかつ、授業だけではなく、部活動、生徒指導、多様化する生徒や保護者との対応を、次から次へと要求され、多くの教師が、勤務時間外にも多くの仕事をしています。もちろん、さぼっている教師もいるでしょうが、大半の教師は教育に熱心です。言語教師認知の研究は、それをサポートする研究であることを追求しています。ただ単に教育研究のための研究ではなく、実践的な研究である必要があると考えています。

『言語教師認知の研究』の第1章と第2章の趣旨はそういうことです。詳しくは、本を読んでください。授業では、その点を踏まえて二つのことを伝えようとしました。

1 言語教師認知研究は、教師の内面を探求することから教師の成長をサポートする。
2 言語教師認知研究は、教師(あるいは教師になろうとする人)の自己の哲学的探求に資する。

英語教育では、英語指導技術の向上を求める方向性が主流です。つまり、指導法の改善、明日の授業に使える指導教材や活動のアイディアなど、表層的な面に関心が集まってきました。「文法訳読はよくない」「受験指導のために問題を解いているだけではよくない」「ゲームして歌歌って楽しくしているだけでは英語力はつかない」などなど、何十年も同じような議論が続いています。そのような議論の中で多くの教師は何を考え、どう指導しているのでしょうか?また、教師だけではなく、生徒はどう考えているのでしょうか?教育は上から押し付けるだけでは決してよい結果は生まれません。基本は、個人の 成長です。個人の成長をどうサポートするのかが、課題です。

一人ひとりがすばらしい才能があると考えて、それを伸ばすことです。言語はその意味でとても大切なツールです。考える、理解する、発表する、など、すべてに言語はかかわります。国語と英語を異なるものと考えるよりも、結局は、自己の成長のツールの重要な一つと考え、母語と外国語などと考える発想を変える必要があるかもしれません。

さまざまな意味で教師は、それらのことに強い影響力を持ちます。言語教師が、言語にかかわる知識、技能、信念、思い込み、態度、意欲などなどの認知的な面について探求することは、言語教師自身の成長を支え、プロフェッショナルとして誇りを育てるのです。

授業では、言語教師認知の探求の一端を紹介しましたが、リサーチの方法は様々です。最初に述べた通り、素朴な質的調査をしてみることが、最初の一歩です。それは、自分が知りたいということに一歩踏み込んでみることです。話を聞きに行くことでもよいです。観察することでもよいです。アンケート調査もよいです。実験でもよいかもしれません。自分自身の日記でもよいかもしれません。探求してみることです。それを授業に持ちより、みなさんで話し合うことで方向性が見えてきます。

次回までに、自分が探求したいことを考えておいてください。

乱筆乱文ごめんなさい。

2012年4月28日土曜日

言語教師を考える

第2回の言語教師認知の雑談が終りました。「雑談」というと誤解されるかもしれませんが、第2回の雑談はとてもよかったですね。記録しておけばよかった。

さて、「雑談」と言いましたが、私は雑談の中に意外とヒントがあると思っています。つまり、発見や発想がある。

言語教師認知(language teacher cognition)は、「言語を教える教師が何を考え、何をよりどころに教え、どんな知識を持って、どんな行動をとり、どのようにふりかえっているのか」ということです。その言語教師認知を研究することで、授業を改善し、よりよい教育を提供できるようにするということを目的にしていると、私は考えています。ということは、つまり、言語を教えることを、その主たる役割をする言語教師を考えることにより、実践的臨床的に、学習や学習者を見ていくということにつながります。

私は英語教師ですので、英語を教えることで、まず考えます。日本では英語教育が主流ですから、それで考えることが一般的でしょう。今日の話は、その英語教育の中で、それぞれの人がどのようにかかわってきたかを、それぞれの人の話を聞いて、ふりかえりました。面白かったですね。

K1さんは、実に興味深い英語教育を体験してきたようです。学校教育の中の英語教育に対する疑問から出発して、なおかつ、その学校教育を問い直そうとしているように見えました。自分の体験、特に塾や予備校で体験が大きく影響しているようです。実は、このように塾や予備校での英語との触れ合いが、その後の英語の学び、あるいは、英語だけではなく、学び全体を大きく特徴づけている可能性があると考えています。しかし、そのことを追求する研究はあまりないようです。言語教師認知自体も欧米での研究から出てきていますから、そのような状況というのはあまり想定していないし、したとしても背景が一般的ではないので、そのような研究をしても意味がないからでしょう。ですが、日本ではこれはかなり大きな意味を持ちます。

「受験英語が悪い」とよく言われますが、受験に群がるビジネスが悪いとも言えます。それは、しかし、「必要悪」でしょう。塾や予備校の指導、あるいは、受験産業は、学校教育の中でも根強い文化です。100年以上もその状況はあまり変わっていないとも言えるのです。

Tさんは、いわば比較的よい先生に出会ったと言ってよいでしょう。しかし、それは、たぶん偶然にそうなったわけではなく、そのような出会いをTさんが作っていると言ってもよいと思います。ちょっとうまく言えませんが、そのような先生と生徒の関係性を見ることは、言語教師認知の研究にはとても大切になる可能性があります。「あなたはなぜ英語の先生になろうと思うのですか?」と問うと、多くの人が、自分が教わったよい先生のことを話します。「あの先生のようになりたい」というようなことをよく聞きます。つまり、自分の中にある教師像ができあがるわけです。これは意外にその人の教師人生を左右します。

Tさんが物事を理解する感性という点が面白かったですね。教師が「これはおもしろいよ!」というオーラのようなものは多くの場合とても重要です。このようなempathyは大いに研究に値します。

K2さんの英語教育との出会いも前向きなもののようです。国際交流ということに関心を持ったというのもうなづけます。交流をするには言語が欠かせません。英語だけという訳にもいきません。韓国語の「地下鉄(チハッチョル)」の話は私にはよく分かりました。ことばとの出会い、ことばだけではなく人との出会いは、きっとそのようなことが大きく影響を与えるのでしょうね。大学には2タイプの学生がいるという話も興味深かったです。ことばを体験的に使ってきた人(使用に慣れている人)と学校(受験)の英語の勉強で積み上げてきた人がいて、互いがそれなりにお互いを認めている、という分析はおもしろい。どうしてなんだろうというのが私の疑問です。

さて、だらだらと書きました。本来は、言語教師認知の研究の背景を講義する予定でしたが、話が面白かったので、その方向に行きました。しかし、言語教師認知の研究は、それでよいと思っています。理論的なことばかり言っても、この研究は意味がないのです。実践があってこそ、言語教師認知の探求です。その意味から、ある意味で、「自己を見つめる」ということをしました。それを他者と共有する。そこにこそ「教師の成長(teacher development)」があるのです。

次回は、自分がこの授業で探求したいことをさらに追求できる会としたいですね。本も読んでおいてください。『言語教師認知の研究』(開拓社)は、入門書のようなものです。読んでもらえれば分かります。次回は少し本の内容にも触れましょう。




2012年4月13日金曜日

2012年度 言語教師認知を考える


言語教師認知とは?

http://ltcjapan.blogspot.jp/

このブログは、言語教師認知(language teacher cognition)を考えるために、メモとして公開しています。

昨年(2011年)から始めました。

特に、日本の学校教育における言語(主に英語)教師の認知を知ることにより、日本の言語教育の改善と言語教師の資質向上を図ることを目的としています。昨年の内容はアーカイブを見てください。


言語教師認知の研究

ここで考える言語教師認知の研究のポイントは、

  • 言語教師の課題解決につながる教師の認知プロセスの探求
  • 英語教育研究の伝統と歴史の中の言語教師認知
  • 教員研修の重要なカギとなる言語教師認知

みなさんが言語を教える教師であれば、「自分を見つめる」ということになります。
語学に関心があれば、自分がかかわっている領域の調査につながるでしょう。
教育全般に関心があれば、教育における言語の役割を考えるヒントにつながるでしょう。

つまり、広く言えば、「教師とは何か?」という教師研究(teacher research)にすべて関係します。教師を知るということは、「学ぶ」ということに深くかかわります。

「ことばを学ぶとは?」「ことばを教えるとは」「ことばとは?」など、さまざまな問題を、言語教師認知研究という視点から考えましょう。