2012年7月6日金曜日

さて

いよいよ発表です。と言っても軽い気持ちで話すのがよいですね。いつものように。

関連で思ったことをつらつらと書いておきます。

言語の授業では、ことばを扱うにもかかわらず、ことばによって意味のある活動ができにくいというパラドックスがあります。そのために、基礎基本、つまり、ことばの構造や機能ということばのしくみを教えるか、それを意識するように促す、あるいは、擬似的なコミュニケーション体験を工夫することで、ことばによるコミュニケーションを理解する機会を図るという、他の授業とは違う工夫が必要になります。つまり、ことばと学習者が興味を持つ内容に配慮する必要があります。

言語学習ということだけを考えれば、言語という内容をことば(母語であったり、学習目標言語であったりします)を介して教える(学ぶ)ということですが、言語教師の意識には、そのことが明確に整理できていない場合が多いのではないかと考えています。分かりにくいかもしれませんが、たとえば、文化を教えるという場合を考えてみましょう。

英語の授業では、文化を教えることは目標の一つです。文化という概念から、国際理解教育、異文化理解などがイメージされるでしょう。しかし、それは英語の授業とは必ずしもつながらないかもしれません。外国語を学ぶ、交流する、文化を知る、文化を紹介する、などなど、学校ではそれぞれの教師の観点からそれぞれの内容と目標をもって指導されます。

そのベースにあるのは、やはり担当する教師の知識や経験にもとづくものであり、考え方が基盤にあることは言うまでもありません。そのような個人的な考えを排除することは、逆に、問題かもしれません。

通訳を介することで理解するということが主になりますが、そこでは何かいつも問題が起こっているように考えています。しかたがないと言えばしかたがないのですが、何か共通に使える言語(英語)があれば異なる理解が可能です。もちろんそこにも問題はあるでしょう。

その意味から、文化についてそれぞれの言語教師がどのような認知のしかたをしているかを知ることは意味あることです。

フィンランドの外国語授業でも、文化の扱いはとても重要です。その際に媒介となる言語は英語が重要です。その意味から英語授業では、英語圏の文化を知ることやその文化と自国の文化を比較してみることをやっているようです。教師と生徒の視点が、日本と較べると、ある意味で実践的であるし、具体的です。どの英語の授業でも、ただ言語のしくみのことだけを取り上げていないように感じます。

「言語はツールである」という意識が強いのではないかと思います。日本ではどうでしょうか?

発表を聞きましょう。







0 件のコメント:

コメントを投稿