2011年7月5日火曜日

小学校教員の外国語活動

小学校での外国語活動はいま多くの人が関心を持っている。どうしてかと言えば、一つの大きなビジネスとなっているからである。指導資格(民間レベル)などの研修会、教材、小学生のための英語塾など、教師も親も多くの投資をしている。また、各学校間でも先生方が多くの努力をして、様々な外国語活動を展開している。

文部科学省のサイト 
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gaikokugo/index.htm

にも多くの活動報告があるし、それぞれの研究団体で多くの活動報告がある。まさに、多様である。教科でも科目でもなく、評価もされない活動に過ぎないが、忙しい中、小学校の先生はそれなりの教材研究をして、「よい授業」をしなければならないのである。

日本の小学校教育の実践は、世界でもいまだにトップクラスである。特に、その効率性は世界でも群を抜いていると思います。教員研修や授業研究など、多くの国が日本の小学校教育に注目し、見倣ってきました。しかし、問題がないわけではありません。大きな問題は、やはり、閉鎖性だと私は思います。最近ではどんどんと多様化していますが、学級王国的な弊害はいまでもときどきニュースになります。また、国際理解教育という割には国際化していない、あるいは、できにくい、環境があります。指摘されたように、外国語=英語 という思い込みがどうしてもあります。しかし、それは仕方のないことです。世の中全体がそうですから。

ただ、小学校は、場所や地域によっては、多文化多言語化が進んでいます。小学校の先生はそれに対応しなければいけないのでたいへんです。様々な国のこどもが、日本語も満足にできないにもかかわらず、小学校に来ます。先生はそれに対応しなくてはいけません。つまり、日本語を教えなければいけないし、生活習慣も教え、その対応も指導しなくてはいけません。多くのことを日本の小学校の先生はこなしています。その点からすると、優秀で、「教える」ということに関しては、まさに「プロ」と言えます。私の知っている範囲で考えると、小学校の先生は、ことばに関してもプロです。ほんとうに分かりやすく日本語を話します。それも気をつけて日本語を使います。その知識と技能をもっと活用すれば、もっと日本の外国語教育は改善されるはずです。

小学校の先生は、英語を教えるために研修を十分に受けていません。これは政策の問題ですが、ひどいことをしています。しかし、今回の外国語活動の導入においても、多くの小学校の先生は表立った不満を表明することなくこなしています。このように教師を大切にしない国はいつか衰退するでしょうね。教師を大切にしている国はうまく行っている国が多いです。

エスノグラフィーはたいへんでむずかしい調査ですが、多くのことを教えてくれます。特に調査する人の資質が重要視されますし、時間もかかります。まとめるのも実は大変ですが、言語教師認知研究では、自分自身のリフレクションにもつながるとてもよい活動だと思っています。得られたデータは表に出せないことが多いですが、そのようなデータは貴重です。しかし、注意しなくてはいけないことは、いつも冷静な目を持っていることだと思います。それは、教師としても必要な資質でもあります。小学校の外国語活動はいま始まったばかりですから、これからもっといろいろなことがあるはずです。注目しましょう。

フランス語教育

日本でのフランス語教育の歴史は古い。英語ばかりが注目されるが、ドイツ語とともに、日本では江戸時代から重要な言語として活用されてきた。また、世界でも、公用語として地位を保ってきたことも事実である。フランス語を話す人たちのフランス語に対する意識はかなり強く、言語としてのフランス語もしっかりとしていて、フランス語教育もしっかりとした体系がある。さらに、アカデミックな面でのフランス語には多くの人を引きつける魅力がある。

現在の日本のフランス語学習者がどのように考えてフランス語を学習し、その教育機関である大学がどのような考えをもってフランス語を指導しているのか。教師の指導理念は学生にどう伝わっているのか。J大学のフランス語教科書はCEFRの考えを反映している、いわゆる、 CLTにもとづく内容や活動が含まれている。教師の教え方も基本的に実用を重視した指導のようだ。英語教育分野の私の経験から判断すると比較的よい指導を行なっているように思える。

学生から見るフランス語の授業はどのように見えているのかは、教師としても興味のある視点である。学生は一人ひとり様々であるということを前提にすれば、おそらく、いわゆる、楽しい授業、為になる授業、分かりやすい授業、勉強が楽な授業などが想像される。それとともに、教師のキャラクターが大きいかもしれない。しかし、ある授業はある学生にとってはよいが、別の学生にはよくないかもしれない。その学生がそのときに思い描いていた知識や技能を提供してくれる授業は、動機づけがされている学生にとっては大切である。動機づけがされていない学生には、動機づけをさせる内容の授業が有効であろう。

フランス語をフランス語で教える授業は、「よい指導」にはいるかもしれないが、そう簡単に「よい」とも言えない。文法や訳読がかならずしも「わるい指導」とも言えないのと同様である。何が授業の良し悪しを決めるのかは意外とむずかしいのだ。

フランス語から見た英語教育はどうだろうか?フランス語を教えている教師の多くは英語もできる人が多い。英語教育を受けた経験もあるだろう。そうすると、英語教育の反面教師的な要素が授業の中に取り入れられる可能性がある。その点からすると、フランス語教育は英語教育よりもある面で効果的な指導をしているのかもしれない。

J大学のフランス語はCLTを基盤とした指導をしているという。CLTとは何か?と問うてみるとけっこう答えはむずかしい。コミュニケーションのために(重視して)教える指導法ということになるが、実態は様々である。おそらく、文法もしっかり教える必要があるし、4技能それぞれの技能と知識は教える必要がある。コミュニケーションだからといって、ゲームや遊びではない。

私は、フランス語の教師が何を考えているのかに興味がある。英語教師と同じだろうか?大学の英語教師とフランス語教師はおそらく違った考えをもって教えているのではないかと思う。言語感覚も違うし、文化も違う。英語に対する先入観のないフランス語を学ぶ学生に対する教師の思いは違うだろう。それでも、共通することは多いはずだ。たとえば、教師と学生との関係性も問題をフランス語の教師はどう考えるだろうか。意外にさばさばとしているかもしれない。そのあたりが知りたい。

2011年6月29日水曜日

塾の英語教師について

日本では、国語教師は何を教えるのだろうか?と考えたことがある。現在はおそらく変わっているだろうが、かなり国語教師は情緒的なことを教えて、日本文化や日本の思想ということにかかわって授業を構成していたように思う。

PISAにおけるリテラシーとは違う能力を教えている印象があるが、現在は違うのかもしれない。

塾での国語教師や英語教師の調査はとても興味が引かれる。私は実態を知らないし、学術的にもどのような目的で調査するかも明確ではないかもしれないし、調べても価値がないのかもしれない。しかし、言語を教えている仕事であるから、共通のことがあるはずである。しかし、実際は相当に違うし、共有することはほとんどないかもしれない。

特に、塾という領域は、日本特有の部分が多く、他の国とはかなり異なる特殊な文化や社会教育システムの上に置かれてきている。これは、昔の寺子屋や藩校の流れにあるものであるとも言い難い。受験戦争という社会構造の中で、塾や予備校として、受験に特化して育まれた教育システムである。アプローチの仕方は様々で、ある思い込みの中で、ビジネスとして今日まで生きてきて、現在では、学校教育よりもある面で重要な位置を占めるまでになってきている。

特に、英語と国語は、受験では主要科目であり、試験で何点取れるかが至上目的である。しかし、それでは生徒が持たないので、あの手この手で、生徒の学習意欲を喚起してきた。ときには、はちゃめちゃな教育もあったろうが、目の前の生徒の判断が第一であり、また、親の判断が重要である。

英語であれば、英語が話せることよりは、テストで問題が解けることが第一なのである。それは長い目で見れば決してよいことではないが、生徒にとっては最も重要なことである。教師をそれを達成しなければならない。

言語教師認知を考える場合、このように塾で熱心に教えている教師を調査することは意義のあることである。塾と学校の教師は、英語を教えるということに関しては、ひょっとすると同じ意識を持っている可能性があるからだ。それは学習指導要領が目指すものとはかなりちがう、ずっと昔から変わらずに存在する集合的英語教師認知かもしれない。

ドイツ語の教師について

大学のドイツ語の教師のことはほとんど知らないが、なんとなくイメージしたドイツ語教師が私の中にいる。それとは逆にNHKなどに出てくるドイツ語会話の教師のイメージがある。日本では、実際ドイツ語がどのように教えられているのかは知らないが、以前同僚だったドイツ語の先生との会話からすると、私が想像するドイツ語教師は、おそらく、私が大学時代に受けていたドイツ語の教師のように教えているのかと思う。

しかし、おそらくそれは私の勝手な想像で、コミュニケーション能力を重視したドイツ語を教えている教師も多くいるだろう。ドイツ文学などでは仕事は成り立たなくなりつつある時代なので、研究者然としていることは不可能に近い。

ヨーロッパで、ドイツ語やフランス語やその他のヨーロッパ言語を教えている言語教師に会って話をすることがある。その際には、英語を媒介として話をする訳であるが、英語教師とあまり区別なく話をすることが多い。また、バイリンガルであったりする教師が多いことから、外国語教師あるいは言語教師というイメージをもって接する。あまり言語の違いを感じたことはない。

その点から考えると、日本の大学のドイツ語教師の認知を調査することは意味があるだろう。英語の教師と違うのか?もし違うとしたらなぜなのか?何が違うのか?同じであれば、何が同じなのか?

興味がつきない。

2011年6月15日水曜日

言語教師認知研究のリサーチ方法

言語教師認知研究のリサーチ方法について前回話しました。

アンケート、インタビュー、観察、日誌などなど、様々な方法があります。

このような調査で得られるデータは、調査対象者の自己申告と調査者の主観的な解釈によって分析されます。調査を実施するときに、この点を忘れると危険です。要するに、得られるデータはいかようにも解釈できる可能性があります。

アンケートは、よく行なわれる調査です。構造を明確にして、ある程度の量を取れば、そのことに関する傾向は分かるので、目的が明確で、調査したいことが限られているならば有効でしょう。しかし、深層にある考えや本音や原因などを探求するには限界があります。因子分析なども行なわれますが、あくまでも推測の域を出ません。

また、アンケートの項目数を多くしたり、複雑にすることで、回答者が気持ちよく回答してくれない危険性があります。分析の際には注意する必要があるでしょう。

それでも、アンケートは最も簡便で有効な調査であり、定量的に分析が可能です。実施する場合は、すでに行なわれているアンケートを十分に参考にして、予備調査を実施してから、回答項目をしぼって実施するとよいでしょう。

インタビューも、簡便な方法ですが、ある程度聞き取り側の経験が重要です。構造的なインタビューであれば、客観性は保たれるかもしれませんが、アンケートとあまり変わらない結果となるでしょう。ある程度、介入的なインタビューも必要です。ある質問に関連して、深く質問するといったことも必要です。

分析にあたっては、録音しておくことが原則です。これには、相手の同意を得て行なう必要があります。録音の意図は、インタビューしているときには、聞き逃してしまうことも多いことと、それを文字にすることによって、異なった視点で分析ができることです。文字にしない場合でも、何度か聞き返すことで、気づくことがあります。また、第3者に聞いてもらうことにより、さらに妥当性を高めることも可能でしょう。

観察は、様々な観察方法が可能ですが、アンケートやインタビューで言われていることが実際の行動ではどのようになっているかを調査者の視点から見ることが大切です。また、観察は、教師のビリーフや信念がどのように構成されているのかを見る貴重な資料です。アンケートもインタビューもその他のデータも結局自己申告に過ぎません。実際にはどのようなかたちで行動に現れているかを検証することは重要です。

このような調査を実施するときに、いわゆる、データや分析の信頼性や妥当性を高めるために、工夫が必要です。大切な点は、調査者のある面で主観的な調査結果について、多くの人が納得してくれるかどうかです。これは従来の統計手法ではかなりむずかしいことです。

さて、言語教師認知の調査には、かなりむずかしい課題が山積みですが、第一に、調査者がおさえておかなくてはいけない点は、ある問題を探求する知的好奇心、つまり、動機をしっかりと持つことです。教師を単に調査対象とだけ見ていては教師認知の調査はうまくいかないでしょう。授業を良くする、教師の力量を高めるなどの、なんらかのメリットが、教師認知研究にはつねに必要です。

それは、ある面では、リフレクションにつながり、アクションリサーチにつながります。ひいては、教師リサーチ全体の大きな課題の解決につながると考えています。

話がまとまりませんが、来週からのみなさんの発表に期待します。

2011年5月29日日曜日

英語教師

英語教師は、どのような経歴があって、どのような授業をしていて、どのような環境にいて、何を考えているのかを知ることはとても重要だと思っています。

人はだれでも信条や信念があります。それは生まれたときから育まれたもので、変えようにも変わりません。あるいは、変えたくもないし、変えてはいけないことかもしれません。人は、それを個性と呼ぶでしょう。個性のない教師はあまり魅力的とは思えません。

「英語教育を科学する」ということは大切ですが、「科学」の意味を間違えると、無味乾燥な授業や学習となってしまいます。授業は生き物ですから、やはり、教師の個性は必要です。受験対策などは、ある面で攻撃の対象となったりしていますが、受験指導でも、人に影響を与えるようなすばらしい授業をしている人もいます。

「使える英語」という観点から、コミュニケーション活動を重視して、様々に工夫して授業をしている人がいます。これもすばらしい授業をしている人がいます。

英語授業を通して、人間教育をする人もいます。これもすばらしい実践の成果を上げている場合もあります。

英語授業は、4技能の効果性だけに注目して、リーディングの力がこのような指導をしたら向上したとか、このような活動をしたら、生徒のコミュニケーション能力がこれだけ上がったとか、ある指導をしたらモティベーションが高まったとか、などなど、効果性だけを話題にする傾向があります。

しかし、それだけが授業の本質ではないのではないかと考えます。より複雑な思考やコミュニケーションが生まれているのが、授業という場面です。教師はそれをむずかしいとも捉えるし、おもしろいと捉えます。人は様々です。教師は様々です。

教師は考えることがまず大切だと勝手に思っています。さて、みなさんはどうでしょうか?

S先生の話は面白かったですね。参考になりましたか?

そろそろみなさんの調査研究の発表です。楽しみにしています。次回は自習ですが、その後、少し整理して発表へとつなげましょう。

2011年5月24日火曜日

様々な言語教師

前回は、language teacher(言語教師)の話をしました。私は、日本では、language teacher という考えが希薄あるいは欧米とは違うと考えています。極端に言うと、日本には、language teacherというコンセプトは存在しないと言えるのではないかと思っています。

つまり、日本では、国語の教師は、漢字を教え、日本の文学を教え、日本の思想を教え、日本的な考えや文化を教えるなどをします。

小学校の学習指導要領は、「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる」とあります。中学校は、「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし,国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる」とあります。両者とも、さいごに書かれている「国語に対する関心(認識)を深め国語を尊重する態度を育てる」が、国語という教科が、単に言語教育というわけではないことを意味していると考えられます。

これは、おそらく、日本だけではないと思いますが、多言語社会からすると、異質かもしれません。

言語教育(ことばの役割とその意味と機能を理解し、ことばを必要に応じてうまく使える指導)は、ひょっとすると、日本では見過ごされている知識と技能である可能性があります。

つまり、国語と英語は教えられているけれども、国語は上記の目標があり、英語は別の目標があります。

このように、「言語教師」というコンセプトをどのように英語教師やその他の外国語教師が理解しているのか、あるいは、国語教師が理解しているのかは、ほとんど調査されていないと考えられます。

そのような言語教師の様々な認知を理解することは、とても重要だと思います。フランス語の教師、ドイツ語の教師、ポルトガル語の教師、あるいは、塾講師など、別の言語教師がどのように考えているのかを調査することは、発端としてはとてもおもしろいことで、有意義です。

教師は、多くのことに影響を与える仕事です。先の戦争でも、大きな役割をしました。どのように荒れた国でもまず教育です。教育は教師が行います。読み書きそろばんだけを教えるだけではなく、それに付随する様々なことを間接的に教えています。

教師の考え、教師の知識、教師の認知過程を探求することは、その意味で有意義です。それも、言語教師にしぼって調査することで、少し言語教育が変わるのではないかと期待するのです。

2011年5月17日火曜日

言語教師認知について概説

前回述べたことをまとめると次のようになります。

・「認知」という用語の問題
・基盤となる社会的認知(social cognition)の考え
 
  人は意図的に環境に影響を与える。
  人は認識を返す。
  社会的認知は自己とかかわる。
  社会的刺激は認知の対象となることで変化する。
  人の特性はそれ自体を考えるのになくてはならない観察不可能な属性である。
  人は、モノが通常変化するよりも時間や環境とともに変わりやすい。
  人についての認知の正確さはモノについての正確さよりも確認するのがむずかしい。
  人は不可避的に複雑である。
  社会的認知は自律的に社会的説明とかかわる。

・ビリーフ研究
・ビリーフと知識と行動
・学習者の研究
・学習者と教師の自律

そこで、私自身は次のように言語教師認知の研究を考えています。

言語教師認知の研究は、大きく変わりつつある言語教育のパラダイム、たとえば、学習者の自律、ICTの利用、CEFRなどの言語教育の枠組、スタンダード、LSP、CLILなど、を英語教師が理解し、効果的に活用することによって、自身の授業を考え直す一つのきっかけとなります。言い換えれば、言語教師認知の研究は、教師のリフレクションやアクションリサーチにつながるのです。さらに言えば、教師認知の研究は、結局は、授業改善、学習、学習者の研究と大きく関連します。単に教師の社会学としても意味がないし、教師の心理学と考えるのも発展性がないのです。

結局、どのような話題であっても、教師にかかわることはすべてテーマです。しかし、それが意外に分かっていないことが多いのです。それぞれ興味のあることをリサーチしてみてください。

次回は、それぞれのリサーチデザインを考えましょう。

2011年5月11日水曜日

日本の英語教師と英語学習に関する教師認知

日本の英語教師についての雑感

日本の英語の先生について、みなさんはどのようなイメージを持っているでしょうか?

中学校の英語の先生、高校の英語の先生、大学の英語の先生、英語の先生と言っても多様です。英語の発音がきれいな先生、海外事情の話をよくしてくれる先生、文法を分かりやすく教えてくれる先生、受験の際のテストのポイントを的確に教えてくれる先生、歌を歌ったり、映画の話をしてくれたり、おもしろい話をしてくれる先生、厳しくて、読んで訳してテストするだけの先生などなど。

中学校の先生のイメージは、その後の英語学習への興味を左右するとよく言われます。また、中学校の英語の先生と高校の英語の先生の教え方が極端に違うという話も耳にします。

大学の先生は高校の先生の指導を批判し、高校の先生は中学校の先生の批判をし、中学や高校の英語の先生は大学入試を批判し、英語母語話者の先生は日本の英語の先生の批判をしたりすることがあります。

日本の英語教師についてのみなさんのイメージはどうでしょうか?フランス語、ドイツ語、ポルトガル語の教師と違いますか?

前回は、言語学習について話しました。話があちらこちらと行きましたが、教師認知的におもしろいポイントがいくつかありました。

簡単にまとめると次のようなことがありました。もっとあったかもしれません。

文法・訳読、CLTの問題
学習スタイルの問題
授業での母語(日本語)の問題
読書と言語学習の問題
通訳・翻訳と言語学習
言語活動の意味
ことばへのこだわり
英語学習と英語授業(英語授業とは?)
学習ストラテジー
個々を大切にした指導
言語学習と音声
日本の学校教育における英語学習
受験英語の効果と影響 
帰国子女の意味
音読や暗唱は会話につながる 
習ったことと使うこと
オーセンティックな教材の意味
英語以外の外国語の学習 
文法学習の問題
海外生活の意味
ネイティブスピーカー
読み聞かせ
英語という言語と英語科目
カタカナ語

続いて、それぞれが追求したいテーマについて一言:

フランス語教育の現状とフランス語教師のフランス語教育の考え方と英語教育について調べることはおもしろいと思います。予想とすると、フランス語教育の先生の方が、CLTや最近の言語教育方法の動向について敏感かもしれません。英語教育は、大学の場合、従来の英文科的な発想と新しい言語教育の発想が極端になっていることが予想されますが、英語は、とにかくTOEICなどのテスト指向が強いでしょう。
フランス語の先生の教師認知を調べる一つの基準に、アンケート調査か聞き取りの調査をしてみるとよいと思います。

教科書は、やはり教える上でも学ぶ上でも重要です。多くの外国語教科書は、CLT的な構成になっています。つまり、場面や機能にもとづき、タスクをすることで外国語を身につける。文法や語彙はその場面や機能に関連して説明されるという構成です。日本の中高の教科書構成は必ずしもそうではありません。そのあたりを較べてみて、教師が教科書をどう意識して、どう教えているのかも併せて調査すると意味があります。

外国語教育の意義というテーマですが、相当に広いです。なぜ外国語を学ぶのか、どのように外国語を学ぶことがよいと考えるのか、言語というものをどう捉えているのか、などを、教師がどう考えているのかを調査するとおもしろいでしょう。外国語を教えている先生は、基本的に、語学が好きで、外国に興味をもっているでしょう。あるいは、関係の外国の文化に興味を持っているかもしれません。しかし、最近では大学の先生は、必ずしもそのような先生ではなく、専門は全く別で、仕事上、外国語を教えている人もいるかもしれません。日本人が外国語を学んでいる意義をそのような教師がどう考えているかは興味あるところです。

日本語を母語として外国語を教えている教師は、ネイティブスピーカーとは違う考え方をしている可能性はあります。たとえば、日本人は日本や日本語を特別に考える傾向が多少あるように思います。たとえば、日本語を使う場合と英語を使う場合に極端に性格まで変わってしまうような人がいます。私が高校教師のときは、あまり世間を知らなかったので、英語を話す場合はテンションを上げなければいけないと思い込み、悩んだこともありました。外国語学習経験や外国居住経験が教え方にも大きく影響を与える可能性があります。そのあたりを調査してみるとおもしろいでしょう。

言語教師認知の研究は、いわば「臨床言語教育」です。実際の場面の具体的な行動や思考に焦点を当てて、探求し、自分を見つめることです。

2011年4月21日木曜日

言語教師認知とは?

言語教師認知とは?

このブログは、言語教師認知(language teacher cognition)を考えます。

特に、日本の学校教育における言語(主に英語)教師の認知を知ることにより、日本の言語教育の改善と言語教師の資質向上を図ることを目的として、この問題を考えます。

まず、次の図を見てください。Simon Borg (2006)をもとに、日本の英語教師の認知の構造を表したものです。


みなさんが、英語教師であれば、納得する部分もあるのではないでしょうか?

これは、私のこれまでの調査研究をまとめて表した概念図です。ちょっと分かりにくいかもしれません。説明が必要ですね。そのようなことを考えるのが、言語教師認知の研究 です。

いっしょに、考えませんか?

言語教師認知の研究

ここで考える言語教師認知の研究のポイントは、

 言語教師の課題解決につながる教師の認知プロセスの探求
 英語教育研究の伝統と歴史の中の言語教師認知
 教員研修の重要なカギとなる言語教師認知

近年、言語教師認知と授業実践との関連性の研究が徐々に注目され、この十数年間徐々に教師の心的プロセスへの注目度が高まり、その関心が浸透するようになってきました。言語教師として必要な力量は何か、言語教師として指導に携わるための知識と技能は何か、それを基盤とした教授力や学習指導力はどのように養成し、育成していくのか、また、その言語教師としての力量と学校教育における教育活動全般にかかわる力量との関連などが取りざたされてきました。しかし、それだけでは言語教師の今日的課題は解決しにくいことが認識されてきたのです。

このような経緯から、言語教師認知研究とは「言語教師が目標指導言語や授業指導に関してどのような認知のプロセスを持って成長しているか」という探求をめざす。言い換えれば、「言語教師がどう考え、何を知り、何を信じているのか、そして何をしているのか」という認知のプロセスを言語教師認知ということばで表します。

多くの言語教師にとって関心の的は、指導言語の知識と技能に関係することであり、かつ、実際にどう指導するかに関連する知識と技能です。どちらに重点を置くかは状況と教師自身の考え方によります。言語教師を取り巻く研修もこれらのどれかに焦点を当て実施されています。文学、言語学、異文化、4技能の指導、発音、導入の工夫など、知識と技能に関する研修が教師の興味を引くでしょう。言語学や文学や言語教育を専門とする言語教育研修の指導者は、自身の研究の観点から様々な知識と技能を提供してきました。また、学校経営、教育課程、生徒指導などの教育にとって重要な研修内容は、校長経験者、指導主事などの経験者が担当し、行政の方針等に沿って、自身の経験と知識をもとに指導してきました。それに対して、教育学の知見を基盤とした教師の研究は、教師を研究の対象として科学的に分析することに終始する傾向がありました。これらの研究や実践が言語教師のために系統的に提供されてきたでしょうか。

英語教育研究はその長い伝統と歴史を形成してきました。「英学」に始まり、「英文学」と「英語学」という二つの学問的柱を中心として英語教育は研究実践されてきました。その伝統に加えて、応用言語学、第2言語研究などを背景とした理論と実践を導入することにより、カリキュラム、指導法、教材などに注目するようになっています。多くは、日本の学校現場の教師文化や実態とは、やや異なる視点からの内容であり、必ずしも現場に浸透するまでには至っていません。1980年代後半に導入された学習指導要領の「オーラルコミュニケーション」という目標設定とALT(Assistant Language Teacher)とのティームティーチングは、ある意味で英語教育を大きく変える出来事でしたが、期待ほどの効果はあがっていない可能性があります。

このような状況に対して、言語教師認知の研究はある意味で重要なカギとなる可能性があります。日本の小学校や中学校を中心にして行われてきた授業研究(lesson study)の伝統と、リフレクティブ・ティーチング(reflective teaching)(授業内容などを、つねに振り返り、考えることにより、授業を改善し、教師としての資質を向上しようとする研修)を背景とした協同のアクション・リサーチ(collaborative action research)(授業内容を、授業実践しながら、同僚とともに、改善しようとする研究)が、言語教師認知研究に支えられるからです。

ー 笹島・ボーグ(2008)『言語教師認知の研究』より

これから、少しずつ内容を充実する予定です。