2012年7月14日土曜日

発表を聞いて4(大手予備校講師インタビュー)

予備校や塾と言われる教育機関あるいはその他の教育産業は、日本の教育には欠かせない存在となっているにもかかわらず、あまり表立って取り上げられることはないようです。その意味で、K2さんの話は興味深く聞きました。大手予備校講師のK先生に焦点をしぼって、その教師のライフヒストリーを、自分とのかかわりを交えて話してくれました。言語教師認知の研究は、教師のビリーフ、教師の知識、教師の意思決定、教師の学習などが、教師の教え方や行動とどうかかわるかを探求する研究で、さらに、その研究を通じて、教師個人の成長を図ることを目的としています。そのことが、生徒の学習に大きく影響を与えるという観点から、とても重要な研究だと思っています。

その意味で、予備校や塾での英語指導は、私にはよく分からない対象で、もっと探求する必要があるといつも思っています。

ウェブで調べてみると、様々な調査報告がありますが、ベネッセに次のように補助教育として説明があります。


JAPAN’S SuPPlEMENTARY EDuCATiON MARKET


また、次のような記事もありました。

Supplementary education in Japan

いずれにしても、予備校や塾は教育の重要な一部となっていることがよく分かります。その中でも「英語」は実に重要な科目となっています。

K先生は、K2さんに大きな影響を与えた先生です。さらに、K2さんだけではなく多くの教え子に影響を与えたようです。静岡から東京に出てきて、人気講師の一人として活躍しています。しかし、生徒の大学合格という目標を実現するプロフェッショナルとして日々の努力は並大抵ではありません。おそらくどのような教育現場でもそれなりに活躍する人だと思います。

K先生が授業で心がけていることは次の3つだそうです。

分かりやすい  おもしろい(fun)      外見/雑談

なるほどと思います。中学校や高校の英語授業でも多くの先生は腑に落ちることだし、そう努力していると考えられます。

私は、大学で教えていて学生に思うことは、「何のために英語を学ぶのか?」ということです。予備校ではこれが明確で「目標の大学に合格するため」です。しかし、これは誤解だと考えています。予備校や塾の先生は、それだけでは生徒は満足しないだろうと直感しているはずです。だから、何か工夫をしなければ生徒の関心を引きつけることはできないと考えます。その工夫は、教師によって違います。違っていいだろうと思います。生徒は違うからです。

その中でも最も重要なことは、生徒の人生や学習などの不安に対する漠然とした配慮ではないかと、個人的には考えます。これは、英語を教えることと直接関係ないかもしれませんが、間接的には大きく関係しています。K先生の心がけていることに関連させると、

分かりやすい → 分かったことによる不安の排除

おもしろい(fun)   → 心を開放することによる不安の排除

外見/雑談 → 「つかみ」による一体感

などと考えることもできます。あまりいい説明ではないかもしれませんが、生徒の安心感や信頼感をつかみ取ることは、教育の基本です。

私は、基本的に受験指導を肯定するわけではありません。文法理解も読解もある意味で必要ですが、最終的には、その言語が「使える」かどうかです。受験という短絡的な学習目標設定はすべきではないと思います。その意味で、予備校や塾のパワーを学習者個人の言語教育ともっと密接に関連させたほうがよいと考えています。

CEFRやCLILやELPなどのヨーロッパを中心とした言語教育の流れは、日本でも生かせる可能性があります。受験というビジネスは相当の力があります。若い人がその表面的な部分にのみエネルギーを注ぐのではなく、言語学習が将来につながる基礎的な能力として生かされることを望みます。その意味で、言語教師は、どのような教育機関でも、言語教師として活躍できるように、次のようなスタンダードを考えみました。

実践的外国語(英語)に携わる言語教師研修カリキュラムより



スタンダード1:外国語の知識と技能
スタンダード2:外国語授業運営の知識と技能
スタンダード3:学習者の外国語学習目標の明確化
スタンダード4:学習者の外国語学習ニーズに沿ったカリキュラム設計と評価
スタンダード5:学習者の学習履歴の把握と学習方法の支援
スタンダード6:学習段階、科目内容、分野、仕事などのディスコースコミュニティの理解
スタンダード7:教育目標、学校文化の理解と外国語教育の専門性
スタンダード8:外国語使用のジャンル(場面や社会文化など)に対する理解
スタンダード9:初等教育から高等教育まで系統的外国語教育理解
スタンダード10:評価測定方法に関する知識と技能


K2さんは、予備校の教師になりたいそうです。きっと「教える」「学ぶ」ことに対する自身の体験がそうさせるのでしょう。それは意味のあることです。私は、塾や予備校はやりがいのある仕事だと思っています。多くの人がその価値を評価しています。世界的にも認められるべき教育文化だと思っています。

しかし、不幸なことに、全体の教育システムとしてもっと効率化される必要があると思っています。結局、お金がない人は、教育を受けられる機会を失っていることをもっと考えたほうがよいでしょう。そして、それに携わる(言語)教師も「教える」ことに集中できることが大切だと考えています。

まとまりがありませんが、刺激的な話でいろいろと考えさせられました。

ありがとう。乱筆乱文ご容赦。

発表を聞いて3(言語教師としてのパーソナリティについて)

Tさんはやはり自分が好きなんだろうと思う。それとともに、他人も好きで、人とかかわり合うのが好きだ。発表にもそれが表れていました。これは、言語教師というよりも教師にはとても必要な要素であり、かつ、けっこうしんどいかもしれません。


パーソナリティがテーマでした。金子みすゞの詩を思い出しました。

私と小鳥と鈴と

私が両手をひろげても、/お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のように、/地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、/きれいな音は出ないけど、/あの鳴る鈴は私のように/たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私/みんなちがってみんないい。

Tさんの話は、まず自分の生い立ちが自分のパーソナリティにどうかかわるかを説明することから始まりました。特に祖母の話はとてもいい話でした。Tさんの人とのつながり方の基本がどこにあるのかがよく分かりました。

話の大筋は、恩師の先生とアルバイト先の大手コーヒーチェーン店での自身の経験でした。二つの話は、人との接し方で共通してました。恩師の先生が生徒とどう向き合っているのかをインタビューで聞き取り調査をしました。経験豊かな先生で、話の様子からするととてもいい先生のようです。自分のパーソナリティを生かした実践が授業に反映されているようです。TさんのロールモデルとしていまもTさんに影響を与え続けているのでしょう。

大手コーヒーチェーン店での経験は、やはりTさんの今日に大きく影響を与えているようです。接客という観点から見れば、教育にも共通する考え方があります。言語教育は、言語の構造や機能をただ教えればよいという訳にはいきません。コミュニケーションという要素と文化という要素を同時に考える必要があります。大手コーヒーチェーン店の理念が、働く人や顧客のことをまず考えることにあるということは、なるほどと思いました。

「分かった!」「できた!」という成功体験は、学習者にとっても、教師にとっても大切です。恩師の先生も大手コーヒーチェーン店の理念も、それを大切にしているということが基本にあるようです。それとともに、Tさんも強くその考えに支えられていると感じました。

人と接するのは楽しいこともありますが、嫌なこともたくさんあります。恩師の先生が感情をある程度抑えて生徒と接するというのは、自分に対する戒めかもしれません。「みんなちがって、みんないい」は、そのとおりだと思うのですが、実はむずかしい。言語教師としては、ことばの学習を通した文化理解能力(intercultural communicative competence)の育成につながります。

Tさんの考えは、まだうまくまとまっていないかもしれませんが、ほぼよい方向に向かっていると思います。全体をよく見ていると感じました。

ありがとう。乱筆乱文ご容赦。

2012年7月9日月曜日

発表を聞いて2(フィンランドの英語教育と教員養成)



Sさんは、特別発表です。昨年から1年間フィンランドに留学していた際のことを話してもらいました。フィンランドの英語教育やその教員養成(特に教育実習)について特に調査してきました。発表はその一部です。Sさんとはこの4月にフィンランドで会って話をしました。その際に、とてもおもしろい体験をしていることを知り、この授業にも特別参加してもらいました。

フィンランドの教育は日本でも注目されています。確かに成果をあげていて、日本の教師からするとかなり異なる環境の中で教えています。Sさんは、その教員養成課程の中でエスノグラフィーをしました。集めた資料はおそらく膨大でこれから整理してまとめるのでしょう。特に教育実習の観察調査は貴重だと思いました。すべて見た記述をしっかりとまとめておくとよいと思います。これから行なう日本での教育実習と較べると何か分かるような気がします。

Sさんの発表の中で、教員にとって大切な点に、distinctiveness(独自性)ということをあげていました。フィンランドの教師教育の特性を表していると思います。もちろん、これは教師に限ったことではありません。当たり前ですが、人と違うこと、個性は、とても大切です。しかし、日本の教育環境ではどうでしょうか?学校や学級などでは、協調性の重要性や他の人と同じ行動や意見を要求されることが多いかもしれません。個性を重視するあまりコミュニケーションが軽視されたりする場面もあります。そのあたりの社会と学校と個人の関係性が、日本ではまだ「閉じられている」という気がします。教師の「教え方」を考えてもそうです。人と同じように教える、だれかのまねをする、自分が教えられたように教える、という状況が多々あると思います。その点、distinctiveness(独自性)は大切です。しかし、その背景には、当然、ある前提条件(学習指導要領)があります。日本の大きな問題は、学習指導要領と現実の要求が、「あいまい」であることにあると、個人的には考えています。

もう一つ、Sさんの発表で、印象に残ったことがあります。「英語を通して教える」ということです。これはさりげなく言われるので、「それで?」となるかもしれませんが、私自身がフィンランドの英語授業を見ていて、いつも感じることです。もちろん、フィンランドでも英語の授業では英語を教えているわけですが、背後には「英語を通して教える」という意識があります。日本の場合、それよりも「英語を教える」という感覚が強いように思います。英語教師は、英語の語彙、文法、統語、文化、コミュニケーションなどなどを教えるということです。「英語を通して教える」を別の言い方をすると、「英語はツール」であるということです。英語自体に何か目標があるわけではありません。もちろん英語という言語を研究の対象とする人には別ですが、多くの生徒は違います。英語は彼らが社会に出たときに必要なツールなのです。

Sさんはどう思ったか分かりませんが、私はフィンランドの外国語教師の授業をすごいとは思いません。日本の教師の方が教え方が上手な人はたくさんいるのではないかと思います。しかし、フィンランドの教師のよいところは、教えることに自信を持って教えているということです。人と違って当然。授業はテクニックではなく、その教師の姿勢と哲学で、まさにその人自身の生き方の問題です。教師は忙しい仕事ですが、まず楽しまなくてはいけないと、フィンランドの教師を見ていると思います。先生が楽しんでいなければ、生徒は楽しくないでしょう。先生がいい加減にやっていれば、生徒もいい加減になります。

フィンランドは、日本よりは教育にお金をかけて、力を入れています。日本はお金をかけずに、効率よく行ない、成果をあげてきました。少しフィンランドを見倣うほうがよいと思っています。Sさんの発表は、フィンランドの教育全体の説明で、話足りない点もあったようです。1年間の知識と経験は貴重ですから整理しておくとよいでしょう。また、これをきっかけにフィンランドを徹底的に研究していくとよいでしょうね。期待したいです。

私もフィンランドの外国語教師認知には興味を持って研究しています。何故かというと、フィランドの外国語教師の考え方や実践を見ていると、日本の英語教師の考え方や実践に「特異な」思い込みがあるということが見えてくるからです。人は違うのは当たり前ですが、その違いを違いのまま受け入れることが、distinctiveness(独自性)なのですが、日本ではどうもそのことが機能していないように思います。distinctiveness(独自性)を強調し過ぎて「独りよがり(ego)」になったり、distinctiveness(独自性)を消すことで、同僚と同じように同じことを大過なくこなすというようになったり、バランスがうまくいっていないように感じます。このバランスを教師が持つことで、生徒もバランスを保てるのではないか。

教師は忙しいと言われます。ちょっと考えてみて、仕事を整理したらどうでしょうか?フィンランドを見ているとそう思います。Sさんありがとう。

乱筆乱文です。間違いや勘違いやご容赦ください。






発表を聞いて1(教職員の国際交流プログラム)


K1さんの発表は、教職員の国際交流プログラムについてでした。自身でも高校生の頃から国際交流活動に参加してきて、実践に根ざした発表でした。調査方法は、ある国際交流団体の職員の方へのインタビューとその現場でのエスノグラフィー的な介入調査です。私はこのような調査はとてもおもしろいと思っています。特に教師には必要な調査方法だとずっと思っていますが、調査方法としては、客観性に欠けるので問題も多々含んでいます。集めるデータの記録とその分析方法に注意を払い、「調査者である私」を意識して、問題を考える訳です。「調査者である私」は、この場合とても重要で、それを排除すると調査の意味もなくなってしまうかもしれません。「調査者である私」の変化も重要で、調査対象の変化も重要です。K1さんは、今回の調査にそのような視点から取り組んだと考えられます。

前置きはそのくらいにして、発表内容の国際交流についてです。国際交流は教育活動では柱の一つです。文部科学省でもそれを推進しています。次のウェブを見てください。


文部科学省の国際交流の推進

それによれば、教職員・学者・専門家の派遣・受入れの実施率は100%超の成果をあげているそうです。しかし、K1さんの調査によれば、中国での教員による交流活動が持続的であるにもかかわらず、かなり制限された表面的な交流に終始している可能性が示唆されています。この指摘はとても重要な指摘です。この分析の背景には、K1さん自身の実践が土台にあります。K1さんは、結論として、交流に重要なのは、「人間理解」「人と人とのつながり」と言いました。単に伝統文化の紹介や語学学習やイベントとしての交流だけではなく、個人と個人がどうつながるか、そのつながりをどう意識するかということだと思います。これは、まったくその通りだと思いました。

文科省の国際交流の推進における調査では、おそらくそういうことはまったく数値としては考慮されていないようです。もちろん、参加している人は「つながり」を意識して、貴重な体験をしているでしょう。しかし、プログラム自体が硬直化した内容になっている可能性も否定できません。その点からK1さんの指摘は重要だと思います。

それとともに、K1さんの発表でとても興味深かったのは、K1さん自身が「人とのつながり」をいつも大切にしている姿勢です。言語教師認知の研究は、ただ教師を調査研究することではなく、調査研究する人自身の「自己の探求」にあります。K1さんはそれを実践していることが、まさに言語教師認知の研究だと思いました。英語では「国際交流」という意味を表現しにくいです。英語による近い概念は、intercultural communication(文化間コミュニケーション)になると思います。international exchangeと訳しても意図は伝わりににくいでしょう。

K1さんが教師になるかどうかは分かりませんが、おそらく国際交流の活動をずっと何らかの形で続けると思います。言語教師認知の観点から言うと、やはりその際の「ことば」の問題、「ことば」の教育の問題を考えていただきたいと思います。その際には、英語はかなり重要なツールとなります。「交流のための英語」「英語からさらに互いのことばへ」という言語教育が必要なのではないかと思います。この役を担うのは、やはり現在の英語教師ではないでしょうか。

そんなことを考えました。発表ありがとう。
乱筆乱文です。間違いや勘違いやご容赦ください。

2012年7月6日金曜日

さて

いよいよ発表です。と言っても軽い気持ちで話すのがよいですね。いつものように。

関連で思ったことをつらつらと書いておきます。

言語の授業では、ことばを扱うにもかかわらず、ことばによって意味のある活動ができにくいというパラドックスがあります。そのために、基礎基本、つまり、ことばの構造や機能ということばのしくみを教えるか、それを意識するように促す、あるいは、擬似的なコミュニケーション体験を工夫することで、ことばによるコミュニケーションを理解する機会を図るという、他の授業とは違う工夫が必要になります。つまり、ことばと学習者が興味を持つ内容に配慮する必要があります。

言語学習ということだけを考えれば、言語という内容をことば(母語であったり、学習目標言語であったりします)を介して教える(学ぶ)ということですが、言語教師の意識には、そのことが明確に整理できていない場合が多いのではないかと考えています。分かりにくいかもしれませんが、たとえば、文化を教えるという場合を考えてみましょう。

英語の授業では、文化を教えることは目標の一つです。文化という概念から、国際理解教育、異文化理解などがイメージされるでしょう。しかし、それは英語の授業とは必ずしもつながらないかもしれません。外国語を学ぶ、交流する、文化を知る、文化を紹介する、などなど、学校ではそれぞれの教師の観点からそれぞれの内容と目標をもって指導されます。

そのベースにあるのは、やはり担当する教師の知識や経験にもとづくものであり、考え方が基盤にあることは言うまでもありません。そのような個人的な考えを排除することは、逆に、問題かもしれません。

通訳を介することで理解するということが主になりますが、そこでは何かいつも問題が起こっているように考えています。しかたがないと言えばしかたがないのですが、何か共通に使える言語(英語)があれば異なる理解が可能です。もちろんそこにも問題はあるでしょう。

その意味から、文化についてそれぞれの言語教師がどのような認知のしかたをしているかを知ることは意味あることです。

フィンランドの外国語授業でも、文化の扱いはとても重要です。その際に媒介となる言語は英語が重要です。その意味から英語授業では、英語圏の文化を知ることやその文化と自国の文化を比較してみることをやっているようです。教師と生徒の視点が、日本と較べると、ある意味で実践的であるし、具体的です。どの英語の授業でも、ただ言語のしくみのことだけを取り上げていないように感じます。

「言語はツールである」という意識が強いのではないかと思います。日本ではどうでしょうか?

発表を聞きましょう。