2012年8月2日木曜日

言語教師認知論2012を終えて

最終会は、特別講師を迎えて、内容的にちょっと濃かったのですが、個人的には勉強になりました。中国におけるglobal understandingに関する教師の認知は、現在の中国の発展を考えると重要なテーマで興味をそそります。

英語を教えるということは、国際理解や異文化理解(文化間理解)と深く関係します。小中高では英語を教えていますが、学習指導要領では「外国語」となっています。ことばは広い理解の始まりでもあるし、欠かせない道具ですが、内容でもあります。

コミュニケーションの重要性は多くの人が指摘するし、社会の中で生きる人間の生活の基盤です。それだけではなく、理解を図る上でコミュニケーション能力がなければうまくいかないでしょう。文化はその際に潤滑油にもなるし、障害にもなります。

「国際理解」ということば自体の理解のしかたも教師一人ひとり違うでしょう。英語では、global or international understandingと一般に言われますが、ヨーロッパなどではあまり聞かない気がします。個人的な思い込みなので事実ではないと思いますが、そんな気がします。どちらかというと、教師の人と話していると、intercultureということばをよく聞きます。

しかし、東アジアでは、「国際理解」は英語を学ぶ際には大きな目標となっているようです。実際は、「国際理解」と称して何をしているのでしょうか?私個人の経験では、「英語圏の文化を体験したり,歌や食べ物や行事を紹介し、平和に仲良くやりましょう」という内容が多かったように思います。それが悪いというわけではありませんが、実際は、もっと個人的なつながりをすることのほうがいつも重要なのではないかと思います。その意味で、英語や互いの言語を利用できることはとても大切です。

Kさんは、日本の大学院で英語教育を研究し、日本語も英語も堪能です。これからますます活躍していただきたいと思います。

さて、さいごの授業で、発表した内容についてレポートをいただきました。ありがとうございます。あらためて興味深く読ませていただきました。それぞれのテーマはどれも、言語教師認知的に見れば、たいへん重要です。ぜひ追求していただきたいと思います。

教師は、教える人であり、研究する人です。英語教師であれば、英語を教えることがまず第1の仕事です。そのための知識、技能、経験はつねにブラッシュアップする必要があります。多くの外国語の教師は、自分の知識や技能に自信を持っていません。もし自信があるとしたら、それはおそらく間違いです(と思います)。

言語教師認知論自体は、何もないかもしれませんが、教師である自分を考える、自分を探求する、それも生徒や同僚を通して自分を見つめる、生徒や同僚も教師を通して自分を考える、というような「学び」を教師という観点から考え、発展させることと深く関係しています。教師自体を研究の対象とするわけではないと考えています。特に言語教師はその点について考える必要があります。文法や単語を教えたり、受験指導をしたり、英語でコミュニケーションすることを教えているだけでは壁に突き当たります。その先があると思います。その先とは、私にもわかりませんが、実際、それぞれのことを探求してすばらしい成果を上げている人がたくさんいます。それをただ見倣うのではなく、「自分を見つける」ことが大切でしょう。そのヒントが、言語教師認知の研究にはあると思うわけです。

英語の知識や技能の向上には何も役立たなかったかもしれませんが、数ヶ月ありがとうございました。また引き続きよろしく。

このブログは,メモです。乱筆乱文ご容赦ください。